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ツチノコ捕獲時の時代背景

ツチノコ捕獲時の時代背景
ツチノコ捕獲時の時代背景

ツチノコ捕獲時の時代背景

ツチノコ観察に訪れる仲間たち

ツチノコ観察に訪れる仲間たち

ツチノコが捕獲された昭和17年は、太平洋戦争の真っただ中。

6月5~7日にかけてのミッドウェー海戦で、日本軍は赤城、加賀、蒼龍、飛龍の4空母と艦載機390機を失う大敗を期し、不利な戦局へと変わりつつあった。

翌18年になると、これまで徴兵を免れていた学生たちまでもが、学徒として戦場へ駆り出されるようになる。

このころ、東京府にあった帝国理学院が研究施設の疎開を兼ねて松代鎮守府内の大日本理科学研究舎と統合し、本格的な生物化学兵器の開発に力を注ぎ始めた。

木之倉左之介の本来の職務はこれであり、ツチノコの観察はあくまで個人的な範疇にとどまっていたのだが、大日本理科学研究舎内ではごく普通に知られていて、木之倉や益岡以外にも、ツチノコを観察に訪れた仲間が何人かいた。

中でも、上席研究員であった太田喜三郎は、ことのほかツチノコの生態に興味を持ち、職務の傍ら度々木之倉のもとを訪れていた。

太田の見解では、ツチノコは他のヘビの奇形とは全く違う別の独立した固有の種であり、クサリヘビ科の亜種もしくは亜科として位置づけるのが適当ではないかと述べている。

また、太田はツチノコを外来種、とりわけ中国大陸か朝鮮半島からの移入種ではないかとも指摘したが、今日に至るまで中国や朝鮮半島でツチノコのような形態を持つヘビの仲間は確認されていない。

上席研究員太田喜三郎の死

上席研究員太田喜三郎の死

ところで、大日本理科学研究舎で行われていた病原体の増殖と細菌培養の成果は、陸軍の731部隊など700番台を付けた一部の部隊によって実証されたと記録されている。

その方法は生体実験によるもので、具体的には生きたままの人間に様々な病原性細菌を植え付け、これによって体に現れる変化と衰弱していく様子を記録するというものであった。

また、当時日本の同盟国であったドイツより毒ガスの製造方法が示されたとあり、大日本理科学研究舎ではこれをもとに毒ガスを生成し、その効果を確かめるために健康な人間に吸引させ、死に至るまでの時間と体の反応を記録するといった方法のほか、残酷極まりない様々な方法を用いて生体実験がなされていたことが述べられている。

実験体の対象は軍属だけでなく、子供や女性を含み民間人にも及んだことが記録されている。

太田喜三郎は、これら生体実験の詳細な記録を報告書という形で受け取っていた。

その後太田は、「どんな努力もやがては必ず実を結ぶ。しかしその実は必ずしも名誉や成功とはなり得ない。結ばれた実は、あくまででも成果という名の結果であり、しかるに悪しき努力は、それに費やされる時間と労力が甚大であればあるほど大きな悲劇をもたらすのみである。」と書き記し、自殺した。

太田の死については、昭和18年6月7日の欄にツチノコの観察記録とともに記載されていた。

その後、ツチノコの観察記録の中に国家や軍令部の在り方に対し批判的な文章がいくつか綴られるようにもなった。

幻覚剤開発の命令

幻覚剤開発の任

ミッドウェー海戦での敗北以降、旧日本軍は各地で敗走を続けるようになり、軍艦や航空機を生産するための資材も底を月、窮地へと追い詰められていった。

そんな中、海軍省の直轄研究機関である、大日本理科学研究舎に急務の要請が向けられていた。

それは特別攻撃要領に関するものであり、具体的には即効性のある幻覚剤の開発であったと記されている。

当時、軍の上層部では、人間自らが球となり敵を攻撃しては国を守ることが大事と叫ばれ、神風特攻隊に見られる航空機による敵艦隊への体当たりや、回天一型、回天二型といった人間魚雷による体当たり攻撃が実行されていた。

この特攻作戦を実行するにあたり、決断をなかなか促せない特攻隊員に対しては、死に対する恐怖心を払しょくさせる目的で幻覚剤の投与を促し、精神を錯乱状態に導いたうえで攻撃に向かわせる方法をとるため、大日本理科学研究舎が薬物開発の任を担うことになった。

益岡岩三郎の死

益岡岩三郎の死

しかし、これに対し大日本理科学研究舎は、人道に反するという理由から薬物の開発を拒否。

太田喜三郎の死後、国家総動員法に基づく戦時体制教育への批判をはじめとする国策全般を非難した内容の機関紙「新生」が作られ、舎内及び一部の帝國大学へ配布。

この事実と薬物開発拒否の姿勢が重なり、大日本理科学研究舎は昭和18年8月18日に特別高等警察隊による査察を受けた。

この時、主任研究員以下16名が非国民であるという理由で逮捕、木之倉左之介は難を逃れたものの、一緒のツチノコの毒性について調査した益岡岩三郎は逮捕。

かねてから大政翼賛会の国民統制を批判し続けていたため、昭和18年8月に特別高等警察によって獄中にて殺害されたと記されている。

このように、当時のツチノコ観察記録の中には、野槌に関する記録とは別に、木之倉左之介が置かれていた時代背景を書き留めた箇所もいくつか認められる。

中でも、「この戦争の最大の責任者は軍の指導者でもなければ政治を画策する輩でもない。何故にも許しがたきは、彼らの横暴を許し、なおかつそれに従うその他大勢の国民である。」と綴られた一説は、木之倉左之介の翻意を表したものであろうと思われる。

日本理科学研究舎の閉鎖

大日本理科学研究舎の閉鎖とツチノコ標本の消失

1943年(昭和18年)9月17日、ツチノコが死亡したため解剖し調査、翌10月に骨格標本が完成する。

1943年(昭和18年)12月、大日本理科学研究舎は、軍から依頼を受け作成していた高濃度の酸を利用した毒ガスの生成実験に失敗。

このとき実験に立ち会った6名の研究者が犠牲となったことがきっかけで、その翌年の1944年(昭和19年)2月に解体された。

もともと大日本理科学研究舎が兵器開発に対し非協力的だったことや、内部で太田喜三郎などによる反政府運動があった事実を隠す必要があったからだと思われる。

大日本理科学研究舎の閉鎖に伴い、ここでの研究内容とその成果については一切極秘扱いとされ、内部資料のほぼすべてが焼却処分された。その際、益岡によって調べられたツチノコの毒性を記した詳細な資料の一部も失われた。

ツチノコ標本の消失

木之倉左之助は、大日本理科学研究舎の解体同時に、ツチノコの骨格標本を東京市中野町に住む知人である佐々井宅へ預け、自身はその2か月ほどのち同じ東京市に転居している。

しかし、1944年(昭和19年)11月、東京はB29による大空襲を受けて焦土と化し、ツチノコの骨格標本は失われてしまった。

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